【論考】自閉スペクトラム症の社会モデルー「コミュ力」の環境依存性ー
【論考】自閉スペクトラム症の社会モデルー「コミュ力」の環境依存性ー

【論考】自閉スペクトラム症の社会モデルー「コミュ力」の環境依存性ー

序論

 「コミュニケーション能力」という規範が、生きていく上での切実な問題になっている。

日本経済団体連合会が実施している「新卒採用に関するアンケート調査」によれば、企業が選考で重視する点は、「コミュニケーション能力」が16年連続で1位であった(2018年時点)。

そして、このコミュニケーションに関する「障害」として、DSM-5[1]ではコミュニケーション障害や自閉スペクトラム症(ASD)が規定されている。本論文では、自閉スペクトラム症の医療化の意義と課題について、「コミュニケーション能力」という概念への社会規範を社会モデルの観点から考察することで検討していきたい。

自閉スペクトラム症の定義

DSM-5において、自閉スペクトラム症とは、下記のような条件を満たした場合に診断される発達障害の一種だとされている

  1. 複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的欠陥があること
  2. 行動、興味、または活動の限定された反復的な様式が2つ以上あること(情動的、反復的な身体の運動や会話、固執やこだわり、極めて限定され執着する興味、感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さ など)
  3. 発達早期から1,2の症状が存在していること
  4. 発達に応じた対人関係や学業的・職業的な機能が障害されていること
  5. これらの障害が、知的能力障害(知的障害)や全般性発達遅延ではうまく説明されないこと

(厚生労働省 2023)

ここでいう、「対人的相互反応」とは、共感能力のことを指す。

執筆動機

本論文でこのテーマについて扱ったのは、現在は自閉スペクトラム症に統合されている旧PDD-NOSの診断を受けており、発達障害に関するNPO(https://dioden.org)の代表を務めている筆者の実感として、上記のような自閉スペクトラム症の説明に対する強い違和感を感じるからである。

筆者はかつて、あるコミュニティにおいてマジョリティであった日本人たちに、不当な扱いを受けていた外国人のグループを助けたことがある。その時の対立は言語の違いによる単純な誤解に基づくものだったと思われるが、その場のほとんどの日本人は「よそ者」である外国人の主張に耳を傾けることはなかった。この時筆者は、「共感力の障害」があるはずの筆者が外国人グループに対して共感的な対応を取っているのに、多くの人が外国人の気持ちを想像しようとしていないことに疑問を感じた。

実際に研究においても、自閉スペクトラム症者は定型発達者に比べて内集団バイアスが生じにくく、自集団と他集団を公平に扱う傾向にあることが知られている(Chenyu Qianら 2022)。さらに、自閉スペクトラム症者は自閉スペクトラム症者に対しては共感を示すという新たな知見が示されたため、自閉スペクトラム症者に「共感力の障害」があるように見えるのは、単に類似性仮説(自分と似た人には共感を示し、そうでないひとには共感しない)の結果である可能性がある(米田ら, 2019)。

さらに筆者は、発達障害やアスペルガー症候群・自閉スペクトラム症のような概念が他者を「異常」だと批判するための道具として利用されることを目にした経験が度々あった。このようなスティグマもあってか、自閉スペクトラム症の当事者である知人の多くは特性をカミングアウトしていない。

このような経験から筆者は、「自閉スペクトラム症」の医療化は(よい側面もあるかもしれないが)当事者の視点に基づいておらず、様々な問題を当事者のみの「欠陥」に帰着し、社会からの排除や偏見を正当化・強化している側面もあるのではないかという仮説を得た。

本論 自閉スペクトラム症の社会モデル的説明と「ニューロダイバーシティ」

本論においては、DSM-5における自閉スペクトラム症の2つの特徴のうち、特に「コミュニケーション能力」という側面から、自閉スペクトラム症の社会的要因について考察する。

この点について、精神医療改革に身を置いた小澤は、取り扱いが困難であるという行動上の難点を持つ子どもを分類し、隔離、排除する「社会」こそが、自閉症概念を支えていると指摘し、社会の解体・改良を訴えた(小澤編 2006)。

しかしそもそも、「取り扱いが困難である」原因を構成するであろう「コミュニケーション能力」という概念すら、その時々の社会の状況とも関係している可能性がある。下記の図1が示すように、「コミュニケーション能力」と呼ばれる概念は1980年代から2000年代にかけて急速に注目されていった。さらにその意味するものも、初期は英語教育に関するものであったのが、2005年以降にはコミュニケーション全般へと拡大していく(尾添 2018)。

図1 「コミュニケーション能力」の検索ヒット数の推移(尾添 2018)

このような状況の中で、進化心理学的な観点から、Nancy Doyleは自閉症の診断が近代における社会的コミュニケーションと感覚的刺激の頻度に比例して増加していると述べている(Nancy Doyle 2020)。

一方で、Evansらによれば、コロナ禍におけるリモートワーク環境においては外向性が高い人ほど生産性とワーク・エンゲイジメントと職務満足感が低下し、バーンアウト(燃え尽き)と離職意思が増加した。一方で筆者は、「コロナで飲み会を断りやすくなった」と喜んでいる「内向的」な人の話を聞いたことがある[2]。このような現象も踏まえると、今日の社会ほどの「コミュニケーション能力」の重視は必ずしも自明ではないかもしれない(Evansら, 2022)。

次に、そもそも「コミュニケーション能力」という概念が個人のみに帰属するものではなく、文脈依存的であることについて述べる。

筆者が、別の研究において高自閉傾向者やその支援者への聞き取りを行ったところ、良い人間関係を築いている高自閉傾向者であっても、コミュニケーション・スタイルは一般的な定型発達者のコミュニケーション・スタイルとは異なる可能性が示唆された。そして、冒頭の「共感力の障害」の議論でも述べたように、相手とのコミュニケーション・スタイルの類似度合いによって、「相手とのコミュニケーションが成立する確率」(≒コミュニケーション能力)は変化しているかもしれない。

加えて、自閉スペクトラム症の当事者であり社会学者のJudy Singerは、リアルの環境においては(おそらくコミュニケーションの制約によって)組織化が進まなかった自閉スペクトラム症者が、インターネット上においてはコミュニティを形成していることを紹介している。つまり、インターネットという文脈において、自閉スペクトラム症者の「コミュニケーション能力」は拡張されるのである。さらに彼女は、デジタル・コミュニケーション構造を構築したGeekやNerd(オタク)、シリコンバレーの半数の人は自閉スペクトラムのうちのどこかにいるだろうとも述べている(Judy Singer, 1998)。

そして、これは新しいことではない可能性がある。

Judy Singerは、グラムシの「ヘゲモニー」概念を引用して、特定の特徴を社会が「価値がある」または「劣っている」と認定し、それが無意識に、当たり前で、自然なものであるかのように知覚されていく正常性のヘゲモニーを紹介している。そして彼女は、normal(普通・正常)という英単語が生まれたのが1840年であり、近代の統計の発展によって(人類史上)ごく最近に構築された概念であると訴えた(Judy Singer, 1998)。つまり、定型発達的・平均的・「一般的」なコミュニケーション・スタイルが「正常」という規範として設定され、教育や仕事の実践において重視されていく過程で、平均的ではないコミュニケーション・スタイルが逸脱視され、「コミュニケーションの障害」として、医療化されていった側面があるのかもしれない

そしてJudy Singerは、インターネット上の自閉スペクトラム者のオンラインコミュニティ・InLvへの参与観察の結論として、当事者たちは「定型発達」であることが唯一の道なのではなく、最善の道でもないことを実証しつつあると結論づけた。InLvのメンバーであるL.Botkinは、「(自閉)スペクトラムにいることは私のgiftであり、fix(修理)されたくない」「大変だけれど、”autistic”(自閉スペクトラム)でありながら幸せになる方法を学んでいる」「私達は自閉症の人を見下したり可哀想だと思ったりしない」「私達は”respected”される(敬意を示される)べきだと思っている」という趣旨の象徴的な発言をしている(Judy Singer, 1998)。さらに、当事者によって設立されたパロディ・サイト「Institute For the Study of the Neurologically Typical」(定型発達研究所)では、おそらく「アスペルガー症候群」をもじった概念である「定型発達症候群」を通して医療化が皮肉られており、「専門家」の言説が侮辱的だという怒りが示されている(ISNT@autistics.org 2002)。

つまり、「コミュニケーションの障害」を当事者の「欠陥」として医療化し、正常なものへと「修正」しようとするアプローチは、必ずしもすべてのケースで最善だとは限らないのである。

そして、このような議論を踏まえた自閉スペクトラム症者の権利運動のための戦略的な概念として、Judy Singerは、生物多様性が生態系の安定に不可欠であるように、「ニューロダイバーシティ(神経多様性)」が文化の安定にとって重要かもしれないという主張を提案した。どのような脳の「配線」がどのような瞬間に最適であるかは誰にもわからないので、神経の多様性(ニューロダイバーシティ)を育成することを正当化できるというのである(Judy Singer, 1998)。

この「ニューロダイバーシティ」については以後も様々な議論が行われ、現在においては日本でも経済産業省などが推進している(経済産業省, 2023)

では「自閉スペクトラム」は、社会の変化を待たなければ改善できない問題であって、たとえば同性愛のように、やがて非医療化された「社会的マイノリティ」になるのだろうか。次章においては、主に病人役割の観点から自閉スペクトラム症の医療化の「良い側面」についても考察していきたい

病人役割と医学モデル

医療化に関する前述のような課題にも関わらず、InLvのメンバーの一人であるSusan Wendellは、(自閉スペクトラム症の)人々がしばしば障害者として認識されることに「憧れる」理由として、社会が自閉スペクトラム症者に対して頑なに、(無理である時も)健常者と同じように振る舞うことを期待し、当事者の苦しさを認識して支援することを拒むことを挙げている。診断を受けるとスティグマを引き受けることにはなってしまうが、特性が社会に認識されたり、実用的な支援を受けたりすることができるのである(Judy Singer, 1998)。医療化が、当事者を「努力不足」論や「道徳的欠陥」としての非難から守り、さらに支援サービスの受給資格を与えているという側面は、発達障害に関するNPOに従事している筆者としても理解できる。

さらに、当事者は「ユーモア」や「からかい」のネタにされたり、いじめを受けたりすることがあるが、医療化はそうした被害から当事者を庇護していると考えられる(通常、「病人」をからかうことは特段に慎まれるだろう)。実際にEvelina Käldらは、特別な支援を「受けていない」自閉スペクトラム症者は特にいじめられやすいことを報告している(Evelina Käldら, 2022)。

 つまり、自閉スペクトラム症の医療化によって病人役割が付与されることで、特性に関連した失敗について当事者の責任が問われなくなり、健常者と同じように振る舞う義務を免除され、専門職からの援助が得られるのである(cf. パーソンズの病人役割論)。

 さらに、仮に「コミュニケーションの障害」の原因が社会にあったとしても、その社会に適応できないと、生きづらさを感じるのは自閉スペクトラム症者の側である。加えて、少数派のコミュニケーション「スタイル」を持っていた結果として、コミュニケーションの「障害」が発生してしまえば、コミュニケーションを経験できる機会が減少するので、結果としてコミュニケーション全体の熟練度も減少するであろう。このような観点を踏まえると、応用行動分析(ABA)や認知行動療法などの「当事者を変える」アプローチは、いずれにせよ当事者にとって実用的だと言える。

実際にJudy Singerも、執筆にあたっては、InLvにいる「低機能」の自閉スペクトラム症のメンバーから、高機能のタイプにとっては自閉スペクトラム症を「差異」として捉える議論は結構だとしても、重度の障害がある場合は現実的な支援が必要だと助言を受けた経験を記している(Judy Singer, 1998)。

では、自閉スペクトラム症は高機能の場合は「差異」で「低機能」の場合は「障害」だと二分できるのだろうか。Judy Singerは、「低機能」の自閉スペクトラム症者のSusanが、定型発達者のようになるために、欠点を克服するためのハードな訓練を課しても、必要な「配線」を持っていないのだからやめるべきだと語ったことを伝えている(Judy Singer, 1998)。これは、病人役割における「回復の義務」の弊害であると言えよう。

 さらに、Judy SingerはOliverとDavisの議論を参照して、障害者にとって医療化は懲罰的で強制的なものとして経験されることがしばしばあると述べている(Judy Singer, 1998)。発達障害に関するNPOに従事している筆者も、特に発達障害の早期発見が重視されている現代においては、当事者の側に診断・支援を受けるかどうかの裁量はあまり無いだろうと感じる。

結論

図2:環境の変化によって、ある特性がプラスになるかマイナスになるかも変動する

 本論においては、自閉スペクトラム症の医療化について、課題とメリットを論じた。これらの議論を踏まえると、現在の「コミュニケーション能力」という概念や自閉スペクトラム症の医療化にはいくつかの問題があり、一方で自閉スペクトラム症を直ちに非医療化して社会的マイノリティとして扱うことにもいくつかの課題がある。

 そこで筆者は、現時点ではこのテーマの結論を敢えて出さずに、まずは(社会モデルの観点から)社会的な課題を解決する取り組みを行い、「コミュニケーションの多様性」を包括した社会を構築していくことを提案したい。

 そして、このような人類のニューロダイバーシティ(神経の多様性)を保護する取り組みは、ますます変化が激しくなり、予測が不可能なVUCAの時代である現代においては、社会の持続可能な繁栄にも資するかもしれない。

参考文献

[1] 米国精神医学会が制定している、精神障害の診断と統計の手引き(DSM:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders )の第5版のこと。世界的な標準の一つとして参照されている

[2] 「内向的」であったり、自閉スペクトラム症であったりするからといって、必ずしも「飲み会嫌い」だとは限らないことを注記しておく

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