ニューロダイバーシティへの批判はある?発達障害の当事者が解説
ニューロダイバーシティへの批判はある?発達障害の当事者が解説

ニューロダイバーシティへの批判はある?発達障害の当事者が解説

こんにちは、自閉スペクトラム(アスペルガー症候群)・ADHDグレーゾーンの当事者で、NPO団体・DiODENの代表としてニューロダイバーシティに関する研究や活動をしているyukiです
実は、これが私が担当する最初の記事になります!至らない点もあるかもしれませんが、丁寧に書きますのでよろしくお願いいたしますm(_ _)m


この記事は、ニューロダイバーシティについてこんな疑問を持っている方に特におすすめです

 
  • 現在の医療や障害者福祉、発達障害との関連性は?
  • ニューロダイバーシティにはどんな議論がある?
  • 医師や当事者・教育機関はどう思ってる?

本記事を読めば、初心者でもニューロダイバーシティへの批判や議論について理解できますよ!

そもそも、「ニューロダイバーシティ」とは?

ニューロダイバーシティの定義ついては、こちらの記事で詳しく解説しています:


ニューロダイバーシティに批判はある?

ニューロダイバーシティに関する当事者の人権運動を完全に否定するような批判は、そこまで有力ではないと感じます。ただ一方で、ニューロダイバーシティの考え方の限界や、現在の課題については様々な議論があります

批判1: 「障害ではなく社会的マイノリティ」と主張すれば、福祉支援が減るのではないか

発達特性を多様性の一つだと主張すれば、「個性だから支援しないでいい」と、現在の障害者支援が受けられなくなってしまい、重度の当事者ほど困るだろうという批判があります

私の考え: 支援の否定ではなく、別の支援のあり方がありうる

ニューロダイバーシティという考え方は、「支援をしないこと」ではなく「定型発達の特性だけを”標準”として扱う」方向性から「どの特性の人にとっても生きやすい環境を作る」という方向性への転換を訴えるものです。そのために、支援の拡大はむしろ重要です。

この議論に関しては前例があります
以前、性的マイノリティーは障害とされていましたが、過去にはWHOが性的マイノリティを精神障害から除外し、差別的なイメージの払拭などの効果が見込まれました。一方でその際にも、「障害ではなくなったら、支援がなくなるのではないか」という懸念がありました。しかしながら、この時にはWHO自身も当事者が支援を受ける権利はなくならないと指摘しています(参考:「性同一性障害を「精神障害」の分類から除外へ WHO」)

性的マイノリティに限らず、黒人や女性など生きづらさを抱える社会的マイノリティは数多くいますが、彼らが支援を受ける権利があるのは、彼らに何らかの障害があるからではありません。同じように、当事者への支援と、非定型な特性が「障害かどうか」は切り離して考えるべきだと、私は思っています

具体的には、性的マイノリティの例で使用され、既に自閉スペクトラムに対しても海外の教育機関などで使用され始めている(Conditions 状態群)という考え方があります※1。これまでは、自閉スペクトラムをDisability(障害)やDisorders(症)と呼んでいましたが、より「中立的」※2な呼び方としてConditionsを採用し、当事者の内面のあり方(状態)の深い理解という土壌の上で、それを支援の根拠にしようという考え方です

※1~3 参照元「ニューロダイバーシティの教科書」 村中直人 p.p.20-25

また重度である当事者に関しても、福祉的支援と組み合わせて環境調整を行うことは有効だと考えます

また、当事者の特性を理解しない「多様性だから支援しなくてもいい」といった考えについては、「多様性への支援」を訴えるニューロダイバーシティとは真逆の考え方で、現実に少数派の人が生きにくい社会構造があるということをふまえても、容認すべきではないと思います

そして、もう一つの重要だと思うのは、逆に既存の支援では支援されない(されにくい)当事者がいるということだと思います(このことについては最後にふれます)

批判2 ニューロダイバーシティから自閉性障害は除外すべきか

知的障害や言語発達の遅れを伴う自閉症である自閉性障害や、その他の高知能ではない当事者はニューロダイバーシティの対象から除外すべきだという議論があります。

私の考え: 属性ごとに考えるべき

非定型な特性(自閉傾向など)に加え、知的障害や言語発達の遅れなどを併発している当事者については、その属性に関しては障害者支援を行いつつも、自閉傾向に関してはニューロダイバーシティ的なアプローチを行うアプローチが考えられると思います。それぞれの状況に応じて福祉的支援と組み合わせて環境調整を行うことは有効だと考えます

また、特性が重度の場合は「治そうとする」アプローチが難しく当事者の負荷が大きいこともあります。その場合は、むしろ「それぞれの特性に合わせて環境を変える」アプローチが重要だと思います

批判3 ニューロダイバーシティから統合失調症や学習障害などは除外すべきか

ニューロダイバーシティは、アスペルガー症候群(現診断基準ではコミュニケーション障害/ または 自閉症スペクトラム障害)の当事者から始まった運動ですが、ADHDや2E・ギフテッドなど、他の分野にも広がりつつあります。Wikipediaのニューロダイバーシティのページによれば、今挙げた他に統合失調感情障害者、ソシオパス者、睡眠リズム障害者などがニューロダイバーシティを唱えています。これらにまでニューロダイバーシティを転用するべきではないという批判があります

私の考え:ニューロダイバーシティ・パラダイムの要件を満たすなら対象

私は、自分が持っている特性以外については知識が比較的浅いので大まかな話しかできませんが、ニューロダイバーシティのパラダイムの概念にあてはまる場合は、対象になりうるのではと思います。

一方でニューロダイバーシティとは別に、障害学にも「社会モデル」という考え方(障害の原因は当事者だけではなく環境にもあるという考え方。日本も批准している障害者権利条約で定められています)があるので、敢えてニューロダイバーシティを主張する必然性が必ずしもあるとは言えない場合もありうると思います

ニューロダイバーシティの主張は、最初に提唱した「アスペルガー症候群」の人を想定して発展してきた経緯があるので、他の状態についてもそのまま議論が転用できるかどうかについては、それぞれの当事者による議論が重要だと感じます

すべての人はニューロダイバーシティの対象?

「全く同じ特性の人は存在せず、その点ではすべての人がニューロダイバーシティの対象である」という考え方があります。同じ定型発達の人同士、自閉スペクトラムやADHDの人同士でも、それぞれの特性は多様です。また、自閉スペクトラムやADHDの特性の度合いはグラデーションなので、定型発達の人も非常に僅かに自閉傾向を持っているとも言えるかもしれません。

その意味では少数派の特性を持つ人にとって生きやすい、ニューロダイバーシティが尊重された社会は、あらゆる人にとって生きやすい社会でもあると私は思います。

ただ、「定型発達の人同士の違いと発達特性の違いを同一視するような言論は、当事者の特性の違いによる生きづらさを軽視している」という批判もあります。私個人としても、それぞれで「特性が非定型な度合い」や生きづらさの度合いが違うことについては留意する必要はあと思っています。一方で、どちらの多様性も重要だと思っています。

批判4 既存の医療や福祉支援の否定であり、問題なのではないか

「ニューロダイバーシティは既存の医療や福祉支援を否定している」と考えている人の中で、既存の支援で助かる人もいるのだから、これを批判することは医療や福祉の発展にとってよくないのではないかという批判があります

確かにニューロダイバーシティは、

「当事者は『欠陥・障害』であるような異常な状態であり、治療すべきだ」という「医学モデル」

へのアンチテーゼとしての、当事者からの人権運動という側面がありました。

たとえば、当事者が定型発達的な振る舞いをさせられることによるストレス増加・自殺リスクの上昇が研究により指摘されています(https://www.turtlewiz.jp/archives/18958より引用)。また、リスクもある向精神薬以外の対処法が限られていること、当事者のあり方を「欠陥・障害」と分類することによる差別の誘発や当事者の自己肯定感の低下といったことは課題とも考えられるかもしれません。こうした点は一部からは批判の対象になるかもしれません

私の考え: みんなでより良いあり方を追求していく

既存の支援とは違うからこそ、既存の支援では手が出せなかった環境面の影響や、支援までには至らないが生きづらさを抱えている当事者については、ニューロダイバーシティが大きな効果を発揮するのではないでしょうか

ニューロダイバーシティを推進する私達のNPO団体・DiODENも、複数の専門医の方から応援していただいていますし、スタンフォード大学の事例では、むしろ医学大学院がニューロダイバーシティを推進しています。日本でも、ニューロダイバーシティに関する話題が、医学紙である「医学界新聞」で大きな反響を呼んでいるようです

一方で私個人の意見としては、それぞれの当事者の意思や特性の度合い、状況を鑑みて、必要ならアファーマティブ・アクションや既存の医療・支援を組み合わせるようなアプローチも可能だと思います。特に現在においては、幼少期の教育・生育環境から職場環境、家庭や老後生活まで、すべてでニューロダイバーシティを尊重した環境を整備することはまだ難しいでしょうから、そうした支援を併用することが望ましい当事者もいると思います。そうした共存のかたちもありうるのではないでしょうか

批判5 

  • 当事者の生きづらさを軽視しているのではないか
  • 現実に生きづらいのだから、障害であるのではないか

ニューロダイバーシティの「発達特性の差異は優劣(障害)ではなく、平等な多様性の一部」という主張に対して、それが生きづらさを軽視しているという批判や、「現実に生きづらさがあるのなら、それは障害として支援すべきではないか」という批判があります

私の考え:

  • 逆に、生きづらさを重視するからこその主張
  • 生きづらさの原因が障害とは限らない

そもそもニューロダイバーシティは、「社会による生きづらさ」をなくそうとするものなので、生きづらさを軽視しているということはないと思います。ただ、生きづらさの原因を「当事者」に見いだすか「社会構造」に見いだすかの違いだと思います

また、「障害があるか」と「生きづらいか」は別の者だとも考えます。たとえば、女性や性的マイノリティ、少数民族といった方には、それぞれ決して軽視できない生きづらさがあると思いますが、それは「当事者に障害がある」からではありません

ただその一方で、同じ非定型発達と言っても、度合いによって感じる生きづらさの種類は違うでしょうから、私もさまざまな非定型な特性の当事者の意見は重要だと認識しています

批判6 理解が浅い組織がある

ニューロダイバーシティは、当事者の人権運動のための概念として形成されてきました。その後、様々な方の尽力により、Microsoft社など企業でも取り入れられるようになって、経営的にも成功しています。「社会貢献と営利企業としての成功を両立させる」という観点から、近年では急速に関心が高まっており、一部ではニューロダイバーシティについて誤解していたり、理解が浅かったりする組織もあります。また、そもそも本来の「ニューロダイバーシティ」とは異なる内容を「ニューロダイバーシティ」と称しているところもあります

私の考え:

この点は、とても深刻な問題に繋がりかねないと危惧しています。私達のNPOでは現在、様々な立場の立場の当事者で協力して、ニューロダイバーシティに関する研究と活動を重ね、ニューロダイバーシティのパラダイムをそれぞれの当事者の幸せに繋げることに取り組んでいます

ニューロダイバーシティへの取り組み自体には強い必要性がある

こうした議論を踏まえても、私は1人の当事者として「ニューロダイバーシティ(神経学的な多様性)を尊重すること自体は必要」だと思います。その上で、ニューロダイバーシティの対象範囲や方法論については、議論が必要だと感じました

なぜなら「明らかに、ニューロダイバーシティが尊重されなければ解消されない生きづらさがある」と、当事者である私自身が感じてきたからです

…といってもこれだけではかなり主観的なメッセージになってしまうので、順を追って説明します

既存の枠組みでは支援されない/されにくい当事者がいる

 現在は、「障害者支援」という枠組みでのみ支援が行われ、多様な発達特性の人が生きやすい環境の整備は余り進んでいないように思えます

 その結果、障害者手帳の交付のハードルが物理的・心理的に高いこともあり、「障害者手帳をもらうまでには至らないけれど、生きづらさを感じる当事者」が数多く発生しています(私も、ASDやADHDを対象とした支援を貰えたことはありません)
 また、たとえ最終的には障害者手帳を貰えたとしても、そこまで生きづらさが高じるまで耐えなければいけないという状況も問題であると考えます

 そのため、ニューロダイバーシティを尊重した多様な選択肢のある社会は、これまで多くの支援から取り残されてきた「中〜軽度」や「発達障害グレーゾーン」の当事者にはとても有効なアプローチになりうると思います。また診断に依存しないことから、未診断・未自覚であるものの非定型な傾向のある当事者にとっても活躍の機会をもたらしうるものだと思います

既存の枠組みが解消しない(助長する)生きづらさがある

私は、既存の支援では対応できない・あるいは既存の支援が引き起こす生きづらさがあると感じています。それは以下の3点です

  1. 「周りと同じ」でないと生きづらい社会
  2. 当事者のアイデンティティの一部でもある特性の否定による、「生きる意味」の喪失感や自己肯定感の低下
  3. 特性が「障害」とされることによる差別

1つ目は、いくら支援が進んでも、生きづらい社会そのものは消えないということです。特に、日本の場合は社会的な問題が顕著であることがわかっています:

しかし、「当事者に問題がある」という考え方は「社会は変えなくてもよい」という考えを強化してしまう可能性があります。しかし、当事者は生まれてすぐ支援を受けられる訳ではないので、長い間苦しむことになります。さらに、「ふつう」の基準が厳しくなれば、今度はもっと特性が軽い人や、他のマイノリティも生きづらさに苦しむかもしれません。また、ニューロダイバーシティの存在は文明の進化に寄与してきたという論文もありますから、ASDやADHDの「遺伝子レベルでの根絶」を支援する研究方針は社会全体にとってもマイナスになる可能性があります

2つ目は、現行の支援が準拠・支持している「非定型な特性は障害である」という考え方や、それに基づく「支援を受けるには診断や障害者手帳の取得が必要」と言った類の制約による生きづらさです。当事者は自身の人格や存在を否定され、さらに支援を必要とする場合は「あなたの特性は障害である」という見解の支持を強要されることになります。これは多くの当事者にとって、カモフラージュ(定型発達者のフリ)の助長や自己効力感の低下につながり得ると思います。

3つ目は、非定型な特性を「障害」や「欠陥」とする考え方が公式見解になっていることは、当事者全体への差別や偏見を助長しているという点です。たとえば、本来は特性に合わせた施策が取られたほうが生きやすいにも関わらず、現在は自身の非定型な特性のカミングアウトは非常に難しい状況にあります。いじめ・人間関係の孤立や、適当な他の理由をつけた面接での不採用・人事での左遷や解雇など、様々な面で偏見や差別を助長する可能性があります。また「困っているのは本人に障害がある所為」という考え方が、特に一般雇用の当事者や通常学級に通う当事者に配慮がなされない原因になりかねません。さらに、「当事者が劣っている」という考えは、当事者が高度なキャリアパスや高い水準の賃金を追求することの妨げにもなります。特に海外のASD・ADHDの当事者の中には、巨大企業の経営者や著名な科学者、世界トップの大学を卒業した人など、高いポテンシャルを発揮している人もいます。しかし、偏見が強い状況では、当事者のキャリアの選択肢が限定されてしまいます


 

以上の理由から、継続的に批判に耳を傾け続けることは重要だと思いつつも、やはり私は「ニューロダイバーシティ」はこれからの社会に必要な考え方だと思います

そして、ニューロダイバーシティに関する取り組みの実績や、当事者の参画がまだ日本では少ないという状況の中で、1人の当事者として「まずはやってみて、世の中に問うてみる」ことは重要だと感じて、ニューロダイバーシティに取り組むNPO団体・DiODENを立ち上げました

もし興味を持っていただけたら、よろしければTwitterのフォローもお願いします(`・ω・´)ゞ

 Twitter:
DiODEN公式アカウント: https://twitter.com/DiODEN_official
DiODEN代表 yuki(筆者) : https://twitter.com/NeurodiversityJ

参考記事:ニューロダイバーシティは「個性」じゃない

2件のコメント

  1. 松本めぐみ

    はじめまして、私自閉症スペクトラム・限局性学習症(グレーゾーン)を持つ母であり、先日NPO法人を立ち上げたばかりの松本めぐみです。
    とても興味深く共感しコメントさせて頂きました。
    社会への生きづらさが今後出て来ると思いますが、息子たちが生きていける社会になってくれる事を願い、又生きていける場合・環境を作れたら!と思っております。
    何かありましたらご相談させて頂けたらと思います。
    松本めぐみ

    1. yuki

      コメントありがとうございます!!

      > 社会への生きづらさが今後出て来ると思いますが、息子たちが生きていける社会になってくれる事を願い、又生きていける場合・環境を作れたら!
      本当にそうですね…

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